★HABITAT:住まいにひとこと:コーポラティブ・ハウジングの可能性★

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No.002 コーポラティブ・ハウジングの可能性(04/12,1999) 永田まさゆき

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 札幌郊外の町で、地域の特性を生かした住み方の将来を考えるというワークショップがあり、少し話す機会があった。カントリーライフの実践者(!)の実感をと言われていたのだけれど、以下のような自分の興味を勝手にしゃべってしまった。

●建築「家」と建築「屋」〜専門家と住まい手の立場

 体の調子が悪くなって病院へ行くと医師が面倒をみてくれる。近代的な病院には修理工場のようなニュアンスがある。患者は医者に体をゆだね、壊れた部品を直して(取り換えて)くださいといわんばかりになっている。患者にとっては、いとおしい自分の体であるにもかかわらず、体の専門家(=医者)に体のシロート(=患者)が支配されることに充足(?)する、という構図がある。

 今日の住まい手の居住空間に対するニーズは、「先生(建築家)、ウチ(作品)をこしらえてください」ということだったり、そこそこの器(マンション・建て売りなど)を「買ってくる」ことだったりする。そのようなシステムの中で、住む当事者はかなり「自分が住むのだ」という創造的な楽しみや喜びを自ら放棄せざるを得ない事態に陥っている。医者と患者の関係にも似て。

 コーポラティブ・ハウジングという手法の中に、これを切開していくチャンスがあるのかもしれない。

 専門家としての立場からは、建築「家(か)」であるよりは建築「屋(や)」であることに可能性を見いだしたい。できれば商店街のお豆腐屋さんなどと並んで、「ウチのおばあちゃんが昔自宅で作っていた豆腐の方がうまかった」などと客に言われて悔しがるような。専門家とシロート(?)が上下の関係になるとまずい。

 住まい手は、住むことを、とことん楽しむべきだ。計画にあたってはその障害になることは避けなければならないし、それまでの住み方の(感覚の)点検やこれからどう住まうかということについての能動的な作業(思考)を自ら行う必要があるだろう。そのためにももっと専門家を利用すべきだ。


●「帰ってくる場所」と「出かけていくための拠点」

 建築系の学生が作成した住宅プランの評価に付き合う機会がある。彼らは「ソトから帰ってきてくつろぎたい」、「疲れた心身を癒す場所にしたい」ということを強調する(親の姿が見たい?!)。確かにそれは住居の機能の一面ではある。それだけか?

 ○○DKというような住居プランのパターンが象徴するように、昨今の住居は生活の余分なものをそぎ落とし効率的なものになった。そぎ落としたものは都市の中に分散され、住居と都市とは相互補完的な関係の中で人々の“全体的な”生活が営まれるハズのものとなった。

 しかしそれらが豊かにネットワークされるというよりも、細分化した専門性がそうであるように、ブラックボックスが増大し、新たな疎外を生むことにもつながった。私らしく暮らしたいという欲求は、○○DKという制度に乗っかった途端に、その枠内での充足ということにシフトさせらてしまう。

 生活はある予定のもとに行われる。でも予定は未定である。大枚はたいて手に入れた住居を「くつろぐ」ためだけのものに収斂させてもイイのか?「巣」のようなニュアンスだけでイイのか?

 “そこで何かがはじまる”予見性に満ちたもの、もっと出発点のような要素が住居に求めらてしかるべきではないか?


●住宅を集合してできること

 共同で住宅づくりを考えることは、居住単位を見直すことにつなげることができる。

 住宅を個人が手に入れる場合、土地とそこに立ち上げる建物とを「個人的に」所有する必要がある。共同化をはかる場合にまず考えられることは、実質的に土地を共有化し、建物の屋外環境を居住者にとって効率的に望ましい形に保全、あるいはバランスのとれた居住「区域」として確保していくというメリットを生かすということである。

 そこでは自分好みの一住戸、その集合としての区域、という図式を多面的に検討し、現実のものにしていく(折り合いをつけていく)わけだが、そこに歴然と引かれる個人(一家族)と集団との間のラインをなんとかできないか、というのがこの論点。

 居住単位は様々だし伸縮する。一住戸がフィックスしたままだと、居住スタイルのありようはその中だけでの対応に終始しがちだ。大勢の家族でわいわいやっていたのに、気がついてみたら老夫婦が広い建物の中にぽつんと……ということがあったり、逆に住み始めた当初よりも広いスペースが必要になる事態もままある。

 伸縮の可能性のある空間が用意できれば、より自由な暮らし方が可能になる。個人(一家族)が占有する居住単位をなるべく小さなものにし、他に流動的な単位を区域がかかえ、共有しあうというやりかたがありうる。

 例えは良くないかもしれないが、アパートのような住戸ユニットの集合を、住人が必要に応じ、ひとつあるいは複数を臨機応変に使用するというようなイメージ。あるいはまた、ドイツの大都市における「カー・シェアリング」の住宅版。


●住むことの多面性

 近代の住まいは“消費者の入れ物”のような要素が強く要請される。

 そこで何か生産するというより(コドモくらい)、“帰ってきてくつろぐ「ねぐら」”のようなイメージがソフトに強調される。それでイイのか?

 共同で住宅作りを考えるのであれば、「生産」の要素を取り入れることをも検討すべきだろう。たとえば、SOHO(Small Office- Home Office)スタイルの住まい手が多数いること。あるいは居住者の経営による小さな店舗(共有のガーデンでできた生産物を利用する飲食店など)などのコンプレックス(複合)として「区域」を考えるということ。

 住まいは閉ざされた個人(一家族)の城であることよりも、お店のように様々な人々が出入りし、“繁盛”するものであったほうが豊かである。そのひとつのきっかけとなる“「区域」が持つ多面性”は是とすべきものだ。


●たとえば「小動物」はおもしろい

 今、食べものはほとんど買ってくるものになっている。売られているものは、素材を買って調理するものから「チン」してすぐ食べられるものにまで「進化」した。自分が食べたいものについて、マーケットの棚にならんでいる物の選択以上の自由度は得難い。そこにあるのはパターン化された食生活であり、あらかじめ誰かによって決められた食べ物の値打ちである。食生活がそれのみに依拠しているということは危ういし、楽しくない。“いつもそこになんでもある”状態を維持している自分たちのニーズというものが、過剰な欲望であることをバブル崩壊が示した。

 現在、身近にいる動物=ペットたちは生産に寄与しない。犬は羊を追えないし、猫はネズミを探せない。ヒトはペットによって癒され、元気を出して働きに行き、オカネを稼いで、ごちそうにありつく、という面倒な回路を経て暮らしを充足することになっている。

 そこでたとえば羊を飼ってみる。羊はほとんど草があれば生きていける。庭の草だって道路際の雑草だって、なめるように食べて、あとは手入れされた芝生のようになる。おまけに毛がとれる。ちょっとの工夫で一匹で家族のセーターの必要分はまかなえる。

 山羊を飼ってみる。山羊も草でほぼOK。雌山羊はミルクを出す。春から秋まで。そのまま飲むのもいいが、手軽にチーズが作れる。肉がごちそうと言えなくなったジジ・ババにはちょうど良いたんぱく質。むやみに殺さなくていいのが良い。でも最後には食える。

 羊も山羊も飼い方ではヒトによく慣れる。団地のオープンスペースや一戸建ての庭で、十分ペット代わりに飼える。ウンチはポロポロで管理しやすいし(容易にたい肥になる)、散歩して近隣の草を食べさせれば美観に貢献できる。草が不足なら、通年つきあうのがタイヘンならば、農家と懇意になればよい。

 行政や産業が見向きもしなくなった(滝川の農業試験場が羊の研究をやめる)これら小動物が、居場所を野や山からマチに移し、マチを耕し、マチの様相を変える役割を果たす……という筋書きは、どこか遠い国のメルヘンではない。

 都市での暮らしを、与えられたものから自分の選択で自由にできる切り替え装置のようなものは、ほかにもまだまだころがっているように思われる。■

(『工房だより』1999年3月号より転載。同誌への問い合わせは発行人永田onn@sh.rim.or.jpまで)

 

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永田まさゆき(ながた・まさゆき)
■プロフィール
 1952年生まれ、札幌市在住。建築士。「アトリエオン」主宰、自称建築「屋」。山羊・羊の類いが街を占拠し、街が森に化けることを願う“メエメエ教”信者。



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