★HABITAT:あなどれない地べた座り★

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No.018 あなどれない地べた座り(06/05,1999) 川口晋

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 「住まいにひとこと」No.014〜016の松本茂氏の「私の『住まいの思想』」は刺激的だった。「靴を脱ぐ」「座る」など無自覚におこなっている日常の動作を改めて考えて直すチャンスというのはなかなかないからだ。靴脱ぎと床座という東アジアの習俗について詳しくご存じの方は意見を寄せて頂ければ幸いである。今回は住まいという問題からちょっと離れるが、その松本氏のNo.015「『ごろごろ』することと生活者の屈服」を読んで思ったことを少し書いてみたい。卑近なことから、いろいろと見えてくる問題もある。

 近頃、歩道でも階段でも、戸外のどこにでもべったりと腰を下ろして、しゃべったり飲み食いしている若い人たち(主に十代)をよく見かける。マスコミがこの現象をとりあげはじめたのは、1、2年ほど前からだが、いつから、あるいはどこからこういうスタイルが始まったのかは、知らない。

 そんな彼・彼女らの流儀に「あまり違和感がなくなった」と自分では思っていたのだが、ひと月ほど前電車の中でこれを見かけたときにはちょっと驚いた。いや、実は「電車でもべったりと座る若者らがいる」というのは聞いてはいたのだが、目の当たりにすると、これは異様だった。満員とはいかないまでもかなりの人が乗っている通勤時間帯の電車で、学生服を着た女子高生3人が床に座ったその空間だけ、別空間だった(ちなみに、電車で化粧をする女性を普通にみかけるようになったのもここ2、3年ほどのこと。ここでどうこう言うつもりはないが、眉そりは危険だからやめるように!)。

 皆がそうするからというファッションでどこにでも座るのではないか、という人もいるだろう。それがちょっとオトナ社会に対する反抗で「カッコイイ」ことであるから、という見方もできる。だいたい「カッコイイ」ことはちょっと反社会的で、衆人環視でそれをするのは少しばかり勇気をともなうものだ。だから、「こんなところで」という場所で、ベターっと座っているのはだいたい複数で、一人でやっているのは、あまりお目にかからない。しかし、「カッコイイ」に加えて「そうすると楽」「気持ちいい」でなければ、なかなか広まらないし、持続しない。やはり、彼・彼女らはくつろぎを求めている、たぶん。そして、それをすべきではないところ、はどんどん浸食されている。

 さて、松本氏の論旨に従うならば、彼・彼女らは、どこでもくつろぎ、どこをも居間化(あるいは寝室化)しているのであり、「ウチに帰ってくつろぐ」という外と内の区別なしにくつろぐ彼・彼女らは、生活する者の尊厳を捨てて、もう「屈服」しっぱなしということになる。が、果たしてそれだけの話なのだろうか?

 私には、そうとも思えるし、そうとも思えない。そう思えない理由のひとつに、どこにでも平気で座る彼・彼女らに感じる「たくましさ」がある。たとえるなら、なにか遊牧民的というか…。生活する者の尊厳とかいう人間的なものを超越する動物的ななにかがそこにあるような気がするのだ。

 この件についてはこれ以上考えなかったのだが、少し前、これについてもっとよく観察し考察している文章に出会った。田口ランディの「バカ娘の馬鹿力に対する考察」がそれだ。

 「考えてみたら、あのどこでも地べたにべたっと座れる、あれも馬鹿力である。地べたに座れるということは、どこでもくつろげるということだ。……馬鹿力のあるバカ娘たちは、電車のなかでも平気で食べる。……眠い、だるい、寒い、暑い、やだ、気持ちいい、バカ娘たちは感じたことをストレートに表現できる。……もし、この資本主義経済が何らかの理由で崩壊したとして、時代が逆行して、牧歌的な生活をよぎなくされたとしたら、一番、そうした社会に適応していくのは馬鹿力のあるバカ娘たちかもしれないなあ、と私は思う」(「ドリーミングの時代を読む」【第32回】バカ娘の馬鹿力に対する考察

 そんな怠惰さにパワーなんかあるのか、という反論も予想される。しかし、「力」というのにもいろんなタイプがある。瞬発力と持久力、攻撃力と守備力……パワーがあるといっても、必ずしも颯爽としているばかりではなく、「地面にべったり」のパワーもあるはずだ。

 彼らは肉体的・精神的疲労からあの地べた座りをするわけではないと思う。疲れているとかいないとか、そんなこと関係なしに、単に座りたいから、立っているのが「いや」だから、体がもとめているから、座る。はしたないとか我慢がたりないとかいうのはその通りだが、余計なことにエネルギーを使わない省エネタイプというポジティブな評価もできる。緊張と弛緩をうまくコントロールしているので、社会人になってもこれを持続できれば過労死なんかとは無縁だろう、とも思ってしまう。

 というわけで何がいいたかったのかというと、第一に床に「べったり」「ごろごろ」の問題は世代でギャップがあるのではないかということであり、第二に、十代の彼・彼女らの、公的な空間を私物化してはばかることのない「馬鹿力」にはあなどれないものがある、ということである。

 生活者の尊厳は解体されつつ「馬鹿力」は今日もゆくのであった。■

▼住まいにひとことNo.015「『ごろごろ』することと生活者の屈服

 

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