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No.025 座る文化・腰掛ける文化(07/23,1999) 津村喬
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靴を脱いで床に座るという文化が「屈辱」につながる、という記事を最近読んだが、果たしてそうなのか。それぞれの文
化に固有なくつろぎの姿勢があり、座り方があり、これに優劣を付けることはできない。また、靴脱ぎは東アジアだけの
スタイルではなく、ユーラシアの西の端っこフィンランドでも同じ靴脱ぎの文化があるのだが、このような異文化の共通項も見逃すわけにはいかない。そして若者の地べた座りも、単に「だらしない・無気力」と片づけるわけにもいかない。
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本誌『Navigator』を出しているメディアフォレストのもうひとつのメールマガジン『ハビタットEメール』で「靴を脱いで床に座る」という住まいの文化と、最近の若者の地べたに座る風俗の評価をめぐってちょっとした論議になっている。「隣の庭」に少し口出ししたい。
「『ごろごろ』することと生活者の屈服」という記事で松本茂さんという建築家は、「両膝を折って跪(ひざまず)くという動作は頭を下げて屈服する、あるいは謝罪する、懇願するということにつながります。英国人であるマカートニーが選んだ片膝を折る kneel down は、あくまでも相手に敬意を表す姿勢であって、屈辱や屈服ではない作法です」と過去に中国皇帝に対して自分のマナーを貫いた英国の外交官の例を出して、「二重橋の前で土下座した臣民、渋谷の歩道にベッタリとしゃがみ込んでいる若者、これらの情景からは、『三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)』につながる屈服の精神が見えてきます。屈服のライフスタイルは、労働の場でも教育の場でもあるいは個人の暮らしの中にもしっかり根をはっています」と、わが国に「屈服」の文化が根付いていて、その原因は靴脱ぎと床座で生活していることにあると論じた。そして次のように結論している。
「跪いて暮らすための靴脱ぎと、床座というスタイルがたくましく生き残っている限り、生活者の屈服はいつまでも継続し、日本人の住まいに尊厳が回復することは困難でしょう。人間が立ち上がる、暮らしが立ち上がることなしには、住まいが立ち上がることはないと確信します」
これに対して匿名読者から「これ(「三跪九叩頭」)と『跪いて暮らすための靴脱ぎと、床座』という私たちの生活スタイルが、直接結びつくようには思えず、何か突飛な感じがします」と反応があった。
これを受けて#016で編集人(『Navigator』の編集人でもある川口氏)から「あなどれない地べた座り」と題する応答があった。その結論部分で、靴を脱いで床座でくつろぐということにおいては世代間ギャップがあるのではないか、という点と、「十代の彼・彼女らの、公的な空間を私物化してはばかることのない“馬鹿力”にはあなどれないものがある」 という点を指摘している。
筆者は50歳だが、電車で一人床に座っているのはまったく平気である。新幹線などの長丁場では、しばしば一号車の端の誰も来ないところでくつろいでいる。また、ふだん乗る京阪神間の電車でも席がふさがっていれば、企画書やインタビューのまとめなど、ゆっくりノートでも整理しよう時は当然床に坐る(そんなに混んでいる時は迷惑だからしないが)。
しかし、それは「屈服の姿勢」だろうか。何に屈服しているのだろう。「人前でくつろぐなどとんでもない、みっともない」という感性のほうがサラリーマンとして、あるいはその予備軍として学校でしつけられた身振り管理に「屈服」しているのではあるまいか。
その意味で、筆者個人にとっては今の十代の地べた座りには世代が違うとはいえあまり違和感は感じない。ただし、これもよく見かける、尻を床からわずかに上げてしゃがんだ姿勢で長時間くつろげるというのは、まねが出来ない(これは足が太くてしゃがむのがつらいという体型的なギャップから来るのだが)。
実はチベット人にはこのしゃがむというのがくつろぎの姿勢で、このまま眠れると山折哲夫さんの『坐の文化論』で読んだ記憶がある。そんなわけないのだが、若者は正座が苦手になったかわりに、チベットの習俗を密輸入しているのかもしれないとも思ってしまう。あの若者のしゃがむ文化のルーツはいったいどこにあるのだろう。
一方、中国人はふつうあぐらをかけない。気功でも、立っていない時は腰掛けてするのが普通だ。仏教をやった人だけ足が組める。あぐらのことを「胡座」と書くのは、西方遊牧民の文化として認定されていたことを意味する(中国では異民族を「胡」と呼び、唐代では広く西域民族を指すことばであった)。また、これはよく知られているが、チマチョゴリの中で片膝を立てて座るのが正式というのは、韓国の坐法である。
つまり、さまざまな座り方に優劣があるわけではないので、立ち上がって暮らすのが人間として完成に近いのだという一種ヘーゲル趣味を持ち込むと論議が混乱してくる。
踊りでもバレエは、自分が地上に縛り付けられているのがくやしいというように天に向かって舞おうとする。ところが民族舞踊というのは地をはい回り、大地の親和力に身をゆだねようとする。ユーラシアの歴史を貫く天(父)信仰と地(母)信仰の葛藤がそこに反映している。これも優劣の問題ではなく、天信仰の側から「地面にくっつきたいのはアニミズムだ」と断言しても何も意味はない。
フィンランドに行って一番感激するのは、都会のアパートでも田舎の別荘でも、靴を脱いで部屋に入ることである(フィンランドの靴脱ぎは意外と知られていない)。ユーラシアの両端に、靴=交感神経優位、はだし=副交感神経優位という文化が残ったことが不思議だった。最近はドイツやフランスでも、常に戦闘状態でいることへの反省もあってか、靴を脱ぐ生活様式がひろがってきている。やがて「チベット座り」がEUを席巻するかも知れない。天地が、からだの中でバランスしているのがいいように思う。
私事になるが、今月下旬にマンションから農家に引っ越すことになった。まわりは宅地になってしまっているが、小さな畑が残っている。松本さん流にいえば「立ち上がる暮らし」をやめて「屈服の暮らし」になるわけだ(2000年問題に対応するにはなるべく大地に近いところがいいという意味の選択でもあった)。むんろすべて畳だが、これが尊厳のない住まいとは思えない。不動産屋ふうにいえば「10K庭付き」になる家が10万で借りられるというのは大変な尊厳である。日本の住まいに尊厳がないというのは、6畳とキッチンで10万というような大都会の住まい文化の貧困のためで、床に座るせいではない。
椅子で暮らす文化というのは、腰椎一番を中心に動く文化である。腰椎は全身をまっすぐに立てて気を上に向かわせる働きがある。頭のはたらきはいいが、頭でする事にからだがついていかない。この住まい方だと、背丈は高いが腰の粘りはない、ということになる。
日本の文化は蹲踞(そんきょ)の文化、すり足の文化で、腰椎三番が中心に動く身振りであり発想である。じっくりからだで考え、自然体で動く。その日本人のからだが自覚のないまま椅子の生活を始めると、背骨が壊れてくる。呼吸が浅くなって不安定になる。トイレでもしゃがまなくなり、雑巾がけもせず、からだの統一性を育てる機会がなくなってしまった。このようなことを研究している動体学という実践的学問もあ
る。
原宿でしゃがみこんでいる少年少女たちは日本的身体復権のための文化保存運動をしているのかも知れない。しかしそれにしては腰骨に力がなく、倦怠感が漂っている(「だるい」とか)。だらしなさとは別の「くつろぎ文化」を育てていくことは、誰の責任でもないみんなの問題である。■
本記事はメールマガジン『Navigator』No.70=1999年6月5日号から転載しました。
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| 津村喬(つむら・たかし) |
■プロフィール
1948年東京生まれ、大津市在住。学生のころから評論活動を続け現在に至る。また1994年、NHK教育テレビ「気功専科2」で講師を務めるなど、気功や東洋医学・代替医学の普及につとめる。1996年より、メールマガジン『Navigator』を創刊、常任ライター兼編集主幹に。同誌で、高野孟とともに、政治、経済から環境、教育問題まで、幅広い分野で評論を展開。著書に『毎日できる東洋健康法』『気脈のエコロジー』『脳力トレーニングの方法』『メディアの作り方』『神戸難民日誌』『快脳気功』など多数。
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