★HABITAT:住まいにひとこと:日本の住まいは開放的か?★

-
ハビタット
HABITAT

* CONTENTS *

feature articles
〜特集のページ〜

住まいにひとこと

こんなモノが欲しい!

Q&A

HOME


(株)メディアフォレスト
habitat@mediaforest.com
 
[メニューへ戻る]


No.028 日本の住まいは開放的か?(08/01,1999) 永田まさゆき

    ご意見はこちら

 松本茂氏から、現在の日本の住文化について「跪いて暮らすための靴脱ぎと、床座というスタイルがたくましく生き残っている限り、生活者の屈服はいつまでも継続し、日本人の住まいに尊厳が回復することは困難でしょう」と結論づけた問題提起(「住まいにひとこと」No.015に収録)があり、今回(「住まいにひとこと」No.025に収録)、津村喬氏がそれに反論されている。

 津村さんが言う、世界中にさまざまな座り方にもとづく文化があり、優劣があるわけではない(チベット・中国・フィンランドの例など)という話を、なるほど、と興味深く読みました。

 松本氏の文章を最初に目にしたとき、私も、これは少し強引な論理展開かもしれないと思いました。ぜんぜん今までこんなふうに考えてこなかった。匿名読者からの「突飛な感じがします」に、近いものがありました。

 でも、松本氏の言説を、靴脱ぎの是非・座法の優劣という観点でのみとらえてしまうと、一方で、私が彼の文章から「そうだよなあ・・・」と感じたことが消えそうなので、ここにメモしておきたいと思った次第です。

 あらためてこんなことを言う人もいないのかも知れませんが、日本の家屋は「伝統的に」木の骨組みに移動可能な建具の組み合わせで、室内と庭との連続感を大事にするなどということともあいまって(夏を旨とすべしだし)おおむね「開放的な」作りだということになっていました。

 住宅の実利的な役割は、そこを住まいとする家族(=のようなものも含め)を入れる容器とでもいうものでしょうか。少し類型的にいえば、その中では個々人の暮らしがあり、家族として・家族的な集団としての暮らし(ひとつ屋根の下、みたいな)があり、そういうものが入った容器(=住宅)の外側に社会が広がっているという図式を思い浮かべることができます。

 家族のみで住宅内部の暮らしの展開が完結するのならば、室内の畳でゴロゴロしようが、立って歩こうが知ったことではないわけですが、そこに第三者(つまり友人・知人や客という来訪者)が存在することを考えたときに、さあてどう構えるか(つきあいの内容・密度が違うという前提に立って)、ということになります。

 日本の住宅の入り口に設定される「玄関」というもの、それはそこの住人を訪ねる第三者にとっては、そこで靴を脱ぐかどうかという意味で、ある種のフィルター(ハードルとでもいうか)です。中に入って何がしかの交流をはかろうとするときに、まず靴を脱ぐという「儀式」があり、せまく短くても廊下を歩き、「奥」の居間に招き入れられ、「ひざ詰め」で会話をするという交流のスタイルは、今日かなり一般的になされていることだと思われます。

 さらに、そこで畳なりカーペットなりの床にすわってくつろぐとなると、もう一歩で相手(住まい手)のふとんの中にまで入り込みそうな気分になっても不思議ではない雰囲気、などとまで言うとオーバーでしょうか?

 よくアメリカのホームドラマなどでは、外からの入り口を開けるとすぐにリビングルームがあり、「やあ!」と来訪者が入っていく光景が見受けられます。入り口のすぐ外側には庭や通りを眺めるための半戸外のテラス(第二のリビングルーム?)があり、夜半に恋人どうしが別れがたくしている様子を家人がそれとなく見ていたり・・・とかするわけです(暗くなってもリビングルームのカーテンをおろさないことも多い。通りからも内部がよく見えたりします)。

 そのような内外の「つくり」の設定は、上記のような日本の住様式に比べ、実用上ずいぶん開放的に見えます。少なくとも第三者との交流(社交とでもいうか)という点においては、どっちかというと今日の日本の住宅は閉鎖的にできていると言えるのではないでしょうか?

 アメリカ人のライフスタイルが良いのかどうかは別として(あまり一般的にとは言いたくないですし、様々な別な要素もあるので)、ある意味で積極的な社交空間を持たない今の日本の住宅を「密室的」であり問題なのだ----と松本氏が提起したものと、私は上記のようなニュアンスで受け取ったわけです。

 住宅に必要な機能としては、どんな格好をしても許される(守られる)、帰ってきてくつろぐことが十分に可能なこと、一種「巣」のような要素が確かに必要ではあります。しかしまた別に、お店のように繁盛するような社会的なにぎわいも不可欠なものとぼくは思いたいのです。不特定多数の人々が入り込むわけではないにしても、個人(家族)の城であることからはみ出ていかないと、暮らしは面白く、豊かなものにならないのではないか。

 たとえば、今日の日本の住宅が狭いからという理由で社交ができにくいということを前向きにとらえ、であれば外部の公共空間(お店やストリートなど)で十分にそれが可能だったら、それはそれで面白い、アジア的繁盛(好きな言い方ではないけれど)ではないか、というようなとらえ方をする人もいるようです。確かにそれも一理ある、と思いつつ、それでもやはり「密室化」は問題ではないかと思います。

 歴史的にも、戦後の日本の住宅政策が、産業の高度成長を担う働き手の“ねぐら”的な要素を強く意識したものであったといえること。それが現在の住構造に色濃く反映されているであろうことは、もっと意識化されてしかるべきことではないかという気がします。そしてまた、どこにでも座る今の若者たちが、今後どのような住まいを求めていくのか興味あるところです。

 家族の変容ということがいわれています。核家族がティピカルな住宅の住人だということは大勢ではなくなりつつあると感じています。今後さらに住宅のイメージは多様化していくと思われます。そういう中で住宅の中でできることの可能性を追うとすれば、密室性を少しでも開いていくことであり、同時に、たとえば「コレクティブ・ハウジング」など住まい方の新しい展開を個々人が試みていくことにほかならないと思います。

 そのような意味で、津村さんの今回の結論「だらしなさとは別の『くつろぎ文化』を育てていくことは、誰の責任でもないみんなの問題である」を示唆的なものと受け取りました。■

永田まさゆき。(「編集後記・コレクティブハウジング」(「工房だより」9906号ダイジェスト版)。同誌への問い合わせは発行人永田onn@sh.rim.or.jpまで)

 

    ご意見はこちら

永田まさゆき(ながた・まさゆき)
■プロフィール
 1952年生まれ、札幌市在住。建築士。「アトリエオン」主宰、自称建築「屋」。山羊・羊の類いが街を占拠し、街が森に化けることを願う“メエメエ教”信者。



▲TOP